田尾原(たおばる)角塔婆 (妙栄塔)

 田尾原(たおばる)角塔婆(鹿児島県姶良郡湧水町田尾原)

  背の高い角塔婆 二基の内、向かって左側の角塔婆で、妙栄(妻)の逆修三十三年相当供養として造立された。延文五年(1360)の北朝銘がある。

田尾原 角塔婆(妙栄塔)(向かって左側) (県指定史跡、南北朝時代中期 延文五年 1360年、凝灰岩、高さ 185Cm)

二基の板碑は夫妻の逆修供養塔で、刻まれた年月日が同じ。偈文も、この妙栄塔から妙清塔へと続いており、二基で一組になっている。

角塔婆頂部(正面)、金剛界大日如来の種子「バン」を薬研彫する
正面に、刻銘があり、他の三面も偈文が墨書されていたという 角塔婆頂部(北面)、宝生如来の種子「タラーク」を薬研彫する

田尾原 一尊種子板碑(妙栄塔) (県指定史跡、南北朝時代中期 延文五年 1360年、凝灰岩、高さ 185Cm 幅 33.5Cm角)

頂部四面に種子を薬研彫し、その下に法華経 如来神力品 第二十一に出る偈(げ)を刻み、下方に造立趣旨・紀年銘を刻む。

角塔婆頂部(背面)、不空成就如来の種子「アク」を薬研彫する 角塔婆頂部(南面)、薬師如来の種子「バイ」を薬研彫する

角塔婆 頂部の種子「タラーク(宝生如来)」「バイ(薬師如来)」は、図案化されている。

四行五字詰めを二段にして罫を引き、法華経 如来神力品 第二十一に出る偈(げ)を刻む。偈は、妙清(夫)塔へと続いている。

法華経 如来神力品に出る偈(げ)、上段

偈(げ):「能持是経者(のうじぜきょうしゃ)、不久亦当得(ふくやくとうとく)、能持是経者(のうじぜきょうしゃ)、於所法之義(おしょほうしぎ)

[ よくこの経を持する者は、久しからずしてまた、まさに(仏の説く秘要の法を)得べし。よくこの経を持する者は、諸法の義、

法華経 如来神力品に出る偈(げ)、下段

偈(上から続く):「名字及言辞(みょうじぎゅうごんじ)、楽説無窮尽(ぎょうせつむぐうじん)、如風於空中(にょふうおくうちゅう)、一切無障礙(いっさいむしょうげ)

名字、言辞において、楽説の窮り(きわまり)がない。それは、風の空中において、一切障害の無きが如くである。]

下部、刻銘 全文 刻銘:「延文五(1360)、庚子、四月」

刻銘全文:「右意趣者、為妙栄禅尼、相当三十三年之如此、奉造立卒都(塔)婆、於所也乃至群生、而已

「延文五(1360)、庚子、四月八日、口主(逆修)、敬白」

延文五年(1360)四月八日、妙栄禅尼 逆修三十三年相当にあたり、この角塔婆を造立した。

稲葉崎の道性・妙性夫妻の逆修供養塔では、妻 妙性の塔婆の方が大きく手が込んでいたが、田尾原では妻 妙栄の塔婆の方が小さい

田尾原(たおばる)供養塔群 (県指定史跡、南北朝時代中期、凝灰岩)

②・③は、妙清・妙栄の十三年相当 逆修供養塔。は、妙栄の三十三年相当 逆修角塔婆。は、妙清の三十三年相当 逆修角塔婆。

 田尾原(たおばる)角塔婆 (妙清塔)                         石仏と石塔-目次!

田尾原(たおばる)供養塔群 (県指定史跡、南北朝時代中期頃、凝灰岩)

稲葉崎・田尾原供養塔群の在銘南朝年号は、稲葉崎には正平13年(1358)年銘の五輪塔、田尾原には正平14年(1359)の板碑がある。

上記南朝年号以外は全て北朝年号で、南朝年号に前後する年号は、稲葉崎に文和五年(1356)銘五輪塔、田尾原に、この延文五年(1360)銘

塔婆がある。この4年の北朝年号を挟んで、南朝年号が2年間存在する。この間に、なにか南朝勢力に加担する必然性があったのかもしれない。

 板碑(いたび)

*JR肥薩線 栗野駅前から、ふるさとバス(轟方面)に乗車、「田尾原公民館前バス停」下車 北方向へ徒歩 約6分。

(撮影:平成24年1月25日)