浄蓮寺(じょうれんじ)(埼玉県秩父郡東秩父村御堂362)
板碑は、上田憲定(のりさだ)(三代松山城主)夫人の墓塔で、板碑制作の末期にあたる桃山時代 文禄四年(1595)に造立された。
浄蓮寺題目板碑(村指定文化財、安土桃山時代 文禄四年 1595年、緑泥片岩、高さ 143Cm 下幅 50Cm)
頭部山形、下に二条線。身部は一重線の輪郭を巻き、上方に「南無妙法蓮華経」の題目、下方に造立趣旨・紀年銘を刻む |
板碑 頭部
頭部山形、下に二条線。身部は一重線の輪郭を巻く。輪郭内最上部の左右に日・月の円形を浅く彫る。
身部上方の刻銘:「南無妙法蓮華経」 | 下方の刻銘:中央に「口口院妙上尊霊位」、左右に紀年銘 |
身部上方中央、蓮華座上に「南無妙法蓮華経」の題目、下方中央に「惺恍院妙上尊霊位」、左右に「文禄四年(1595)乙未」「正月廿九日」の紀年銘を刻む。
身部 下方
左右に「文禄四年(1595)乙未」「正月廿九日」の紀年銘。
板碑は、上田憲定(松山城主)夫人の墓塔とされている。上田憲定(天文十五年:1546年~慶長二年:1597年)は、天正十八年(1590) 豊臣秀吉が小田原城を攻めた時、松山城
は家臣にまかせ、自身は小田原城に籠城した。その後、松山城は落城、小田原城も開城し憲定は消息不明となった。上田氏の系図には、慶長二年に没したと記されている。・・
板碑 二基
上田憲定夫人の板碑は、向かって右側。左側の題目板碑は、小田原城攻めの翌年にあたる天正十九年(1591)の在銘で、浄蓮寺第十一世「日雄」が造立した。
浄蓮寺(じょうれんじ)天正十九年銘 題目板碑 石仏と石塔-目次!
浄蓮寺(じょうれんじ)山門 (日蓮宗)
*東武東上線 JR八高線 小川町駅前からイーグルバス 白石車庫前行きに乗車、「学校入口バス停」下車、西方向へ徒歩 約3分。板碑は、祖師堂背後の墓地に立っている。
(撮影:平成24年4月21日)