肥塚氏(こいづかし)供養板碑(埼玉県熊谷市肥塚1丁目)
成就院門前から北東 約300m、成就院境外墓地の北側にある板碑で、肥塚氏の墓と伝えられる。鎌倉時代中期 康元二年(1257)の紀年銘がある。
肥塚氏 供養阿弥陀一尊種子板碑(市指定文化財、鎌倉時代中期 康元二年 1257年、緑泥片岩、高さ 117Cm 下幅 39Cm)
頭部山形の頂部を欠損する。身部は、上方に阿弥陀如来の種子を蓮華座上に薬研彫し、下方に無量寿経に出る偈と紀年銘を刻む |
板碑 頂部
頭部は低い山形で頂部を欠損する。下に二条線、額部はつくらず、身部の輪郭はない。
蓮華座上に阿弥陀如来の種子「キリーク」を薬研彫する | 身部下方の刻銘 |
身部下方の刻銘
向かって右から三行 「無量寿経」に出る偈(げ)を刻み、左端に「康元二年(1257)丁巳三月日」
無量寿経に出る偈(げ):「設我得佛(せつがとくぶつ)十方衆生(じっぽうしゅじょう)至心信楽(ししんしんぎょう)
欲生我国(よくしょうがこく)乃至十念(ないしじゅうねん)若不生者(にゃくふしょうじゃ)不取正覚(ふしゅしょうがく)」
[ たとえわれ仏となるをえんとき、十方の衆生、至心に信楽して、わが国に生まれんと欲し、乃至十念せん。もしわが国に生まれることができなかったら、我は仏にならない。]
板碑は、「肥塚太郎九郎光長」の墓と伝えられている | 刻銘:「康元二年(1257)」 |
二基並んで立つ肥塚氏供養板碑
向かって左は、地蔵の種子を刻んだ板碑で、南北朝時代 応安八年(1375)の銘があり、肥塚八郎盛直の墓と伝えられている。
板碑の手前には「肥塚太郎光長之墓所」と刻んだ大きな石碑が立っている。
*JR熊谷駅前から朝日バス太田駅・西小泉・妻沼・妻沼聖天前行きに乗車、「肥塚報恩寺前バス停」下車、東方向へ徒歩 約8分。
(撮影:平成24年4月22日)