功山寺(こうざんじ)宝篋印塔

 功山寺(こうざんじ)(山口県下関市長府川端1-2-3)

  中央塔は、地方臭のないすっきりとした形状で、相輪は別物。作風から鎌倉時代後期の作品と推定されている。

功山寺(こうざんじ)宝篋印塔(中央塔) (鎌倉時代後期、花崗岩、高さ 170Cm)

仏殿の後方にある墓地の奥、大内義長の墓と呼ばれている宝篋印塔。義長の時代よりずっと古い鎌倉時代後期の作品と推定されている

功山寺第三十七世・探南百城和尚が裏山で発見し、寺伝から仏殿で自刃した大内義長とその殉死者の墓であろうと、各部品を集め三基の石塔を組んだという。

笠の段型は下二段、上六段、隅飾は二弧輪郭付で少し外傾する。

塔身 正面

四面とも無地、山口県の主な宝篋印塔は同じく無地が多い。

基礎 正面

基礎上端は複弁反花、側面は輪郭を巻き、内に格狭間をつくり近江文様の開蓮華を浮彫にする。

 功山寺(こうざんじ)宝篋印塔 東塔 (向って右塔)

  相輪は別物で、基礎に特徴があり、側面三方に中心飾りつきの格狭間が刻まれている。作風から南北朝時代の作品と推定されている。  

功山寺(こうざんじ)宝篋印塔 東塔(向って右側塔) (南北朝時代、花崗岩、高さ 120Cm)

笠の段型は下二段、上六段、隅飾は二弧輪郭付でやや外傾する。

塔身 正面

四面とも無地、山口県の宝篋印塔は無地が多い。

基礎 正面

基礎上端は複弁反花、側面は輪郭を巻き、内に中心飾り付きの格狭間を刻む。

 功山寺(こうざんじ)宝篋印塔 西塔(向って左塔)

  相輪と塔身は別物で、基礎に近江文様の開蓮華が刻まれ、近江文様の伝播を証明する作品。作風から南北朝時代の作品と推定されている。

功山寺(こうざんじ)宝篋印塔 西塔(向って左側塔) (南北朝時代、花崗岩)

笠の段型は下二段、上六段、隅飾は二弧輪郭付でやや外傾する。

塔身 正面

五輪塔の水輪を流用する。四面に四門の梵字が刻まれている。

基礎 正面

基礎上端は複弁反花、側面は輪郭を巻き、内に格狭間をつくり近江文様の開蓮華を浮彫にする。

 功山寺(こうざんじ)の建造物

功山寺仏殿 (国宝、鎌倉時代後期 元応二年 1320年、桁行三間 梁間三間、入母屋造、桧皮葺)

内陣の柱上部に元応二年(1320)の墨書きがあり、建立年代が判明した。本尊は、千手観音坐像。

功山寺山門 (市指定文化財、江戸時代 安永二年 1773年、三間三戸二重門、入母屋造、本瓦葺)

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功山寺(こうざんじ)(曹洞宗)

鎌倉時代後期 嘉暦二年(1327)臨済宗 長福寺として創建、後 足利氏・大内氏の外護を受けた。

慶長七年(1602)に毛利秀元が曹洞宗に改め笑山寺とし、承応元年(1652) 秀元の法号により功山寺とした。

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*JR山陽本線 下関駅前又は長府駅前からサンデンバス 城下町長府経由バスに乗車、「城下町長府バス停」下車、西方向へ徒歩 約10分。

(撮影:平成24年9月20日)