越後国分寺(えちごこくぶんじ)三重塔(新潟県上越市五智3-20-21)
聖武天皇が諸国に建立した国分寺、本寺は越後国分寺の寺号を継いだ名刹。親鸞聖人の旧跡でもある
越後国分寺三重塔(県指定文化財・江戸時代後期 安政三年 1856年上棟、昭和52年完成・桟瓦葺・高さ 25.85m)
三層部、高欄未完成、軒は扇垂木、組物は三手先 |
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二層部、高欄未完成、中備えは三間とも蟇股、軒は二軒繁垂木 |
国分寺は聖武天皇が天平十三年(741)の一国一寺の建立を命じたのが始まり。当時の越後国分寺の所在は不明となっている
塔は石造の基壇の上に建ち、縁は無い、中央間は桟唐戸、脇間連子窓、中備えは十二支の動物彫刻が入る
二層、中国二十四支考の中の十二支考の彫刻をはめ込む |
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初層、中備え蛙股の部分に十二支の彫刻をはめ込む |
相輪(写真:右)は、九輪が円筒状のものを輪切りにしたものが針金状のものでぶら下げている。水煙、竜車がなく宝珠のみ。仮設で本設は後日という感じ
現在の国分寺は永禄五年(1562)近隣の春日山城主上杉謙信が再興したもの
初層、蟇股の位置には高田の名工、石倉(後藤)正義銘の十二支の彫刻がはめ込まれている
子 丑 寅
卯 辰 巳
塔の内部は四天柱と心柱がある
三重塔を現在の姿に建て直したのは宮大工、曽武川常右衛門と江崎の長三郎。安政三年(1856)より約20年かかったが未完成のまま中断
午 未 申
酉 戌 亥
親鸞聖人の旧跡
親鸞聖人は承元元年(1207)この地に配流せられ、国分寺に一時寄寓していたといわれている
五智国分寺本堂(正面)(平成九年再建) |
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五智国分寺本堂(側面) |
塔は、もとの三重塔が焼失(寛政六年 1794年)後、再建にかかり明治時代まで工事され未完成のまま中断(上記)。結局、昭和五十二年再開され一応の完成をみた
(平成17年9月24日撮影)
*上越市と言うより直江津(なおえつ)と言ったほうが親しい。三重塔では相輪に驚いた。二・三層の高欄と同様、明らかに未完成。しかし、一・二層の蛙股の彫刻は美しかった。