田尾原供養塔群は、稲葉崎供養塔群より直線距離で東に約650mの山中にある。稲葉崎供養塔群より、少し時代が下がり南北朝時代中期の在銘塔が中心となっている。
田尾原(たおばる)一尊種子板碑(鹿児島県姶良郡湧水町田尾原)
供養塔群の後方に一列に並んで立つ塔婆群の二基で、妙清・妙栄夫妻の逆修十三年相当供養として造立された。正平十四年(1359)の南朝銘がある。
田尾原 一尊種子板碑 (県指定史跡、南北朝時代中期 正平十四年 1359年、凝灰岩、高さ 190Cm)
二基の板碑は、夫妻の逆修供養塔で、刻まれた年月が同じ。二基で、一組になっている。
(夫・妙清)
二基の内、向かって左側の板碑で、夫・妙清の逆修十三年相当供養として造立された。南北朝時代中期 正平十四年(1359)の南朝銘がある。
田尾原 一尊種子板碑(妙清塔) (県指定史跡、南北朝時代中期 正平十四年 1359年、凝灰岩、高さ 190Cm 下幅 31Cm)
頭部山形、下に二段の切込、額部はやや縦に長く、身部上方に種子「アン」、下方に造立趣旨・紀年銘を刻む。
板碑 頂部
頭部は浅い反りがある四柱山形、下の二段の切込は側面に及ぶ。額部はやや縦に長く、薄く突出する。
身部上方に種子「アン」が薬研彫されている。「アン」は通常、阿弥陀如来(胎蔵界)・普賢菩薩の種子として知られる。 |
望月 友善氏は、「大分の石造美術」(望月 友善 著、木耳社)で、豊後高田市の梅遊寺板碑(建武三年 1336年銘)のアンを「胎蔵界大日如来」として説明している。
刻銘 全文 | 刻銘:「正平十二二(四)年(1359)八月十八日」 |
刻銘全文:「妙清禅門、施主逆主(修)相当十三年、正平十二二(四)年(1359)八月十八日」
正平十四年(1359)八月十八日、妙清の逆修十三年相当にあたり、この板碑を造立した。正平は、南朝年号で珍しい。
(妻・尼 妙栄)
二基の内、向かって右側の板碑で、妻・妙栄の逆修十三年相当供養として造立された。夫・妙清と同じ南北朝時代中期 正平十四年(1359)の紀年銘がある。
田尾原 一尊種子板碑(妙栄塔) (県指定史跡、南北朝時代中期 正平十四年 1359年、凝灰岩、高さ 180Cm 下幅 30Cm)
頭部山形、下に二段の切込、額部はやや縦に長く、身部上方に種子「アン」、下方に造立趣旨・紀年銘を刻む。
板碑 頂部
頭部は浅い反りがある四柱山形、下の二段の切込は側面に及ぶ。額部はやや縦に長く、薄く突出する。
身部上方に妙清塔と同じ、種子「アン」を薬研彫する。「アン」は通常、阿弥陀如来(胎蔵界)・普賢菩薩の種子として知られる |
「アン」は、胎蔵界大日如来の意味もあるのかも知れない。
刻銘 全文 | 刻銘:「正平十二二(四)年(1359)八月」 |
刻銘全文:「尼妙栄逆主(修)十三年、正平十二二(四)年(1359)八月十八日」
正平十四年(1359)八月十八日、妙栄の逆修十三年相当にあたり、この板碑を造立した。正平は、南朝年号で珍しい。
田尾原(たおばる)供養塔群 (県指定史跡、南北朝時代中期、凝灰岩)
②は、妙清の十三年相当 逆修供養塔。③は、妙栄の十三年相当 逆修供養塔。④・⑤は、妙栄・妙清の三十三年相当 逆修角塔婆。
田尾原(たおばる)供養塔群 (県指定史跡、南北朝時代中期頃、凝灰岩)
田尾原供養塔群は鶴田家の裏山にあり、山中に散在していた主なものを現在地に復元したもの。
稲葉崎供養塔群の紀年銘が南北朝時代前期が中心であったのに比べ、田尾原供養塔群は南北朝時代中期のものが中心となっている。
*JR肥薩線 栗野駅前から、ふるさとバス(轟方面)に乗車、「田尾原公民館前バス停」下車 北方向へ徒歩 約6分。
(撮影:平成24年1月25日)