無量光寺(むりょうこうじ)元応二年銘 宝篋印塔

 無量光寺(むりょうこうじ)(神奈川県相模市南区当麻578)

   時宗三祖 智徳が没した日、「元応二年(1320)七月一日」の紀年銘を刻む宝篋印塔で、智得の墓塔と思われる。

無量光寺 宝篋印塔(市指定史跡、鎌倉時代後期 元応二年 1320年、安山岩、高さ 168Cm)

歴代廟所、中央塔から左側へ二基目の宝篋印塔 塔身の刻銘:「元應二年(1320)

大破するが、段型は下二段、上五段で最上部は側面二区の露盤とし、隅飾は二弧輪郭付で内は無地、やや外傾する。

塔身 正面

塔身は、輪郭を巻き内は無地、正面に紀年銘が刻まれている。

刻銘:「元應二年(1320)七月一日」

元応二年(1320)七月一日は、時宗三祖 智得が六十一歳で没した日で、宝篋印塔は智得の墓塔と思われる。

尚、時宗四祖の地位は、智得の生前 元応元年(1319)に吞海が継いでいる。

相輪は、下から伏鉢・単弁請花・九輪で、九輪は三輪を残し上部を欠失する。また、宝篋印塔は、全体に傷みが目立つ。

元応二年(1320) 時宗三祖 智得が亡くなると、二祖真教の弟子で元応元年(1319)に時宗四祖を継いだ 吞海が帰住しようとしたが、智得の弟子 内阿真光が

、時の執権 北条高時の命で、これを拒み 自ら他阿と号し、当麻派の祖となる。吞海は兄の俣野景平の援助を受け、藤沢に道場を建立した。それが清浄光寺

として現在に至る。吞海の門は、遊行派と称され時宗主流派となる。その後、しだいに統合され第二次大戦後、清浄光寺が総本山となった。・・・・・・・・・

基 礎

基礎上端は二段の段型、側面は四面とも関東形式の二区で、内は無地。

笠の隅飾りは、三ヶ所が欠けているが、一ヶ所残っている。塔の規模にしては小さめで、二弧輪郭付、やや外傾する。

元応二年(1320)銘宝篋印塔は、歴代廟 中世塔婆のなかで、相輪が欠損していなければ一番大きく 高さは 2mを超える。

反 花 座

上端は複弁反花、側面は二区で、各々格狭間が彫られている。

指定 名       称 制  作  年 西  暦
市・史跡 無量光寺(むりょうこうじ)文保三年銘 宝篋印塔     鎌倉時代後期 1319年
市・史跡 無量光寺(むりょうこうじ)元応二年銘 宝篋印塔     鎌倉時代後期 1320年
市・史跡 無量光寺(むりょうこうじ)康永三年銘 宝篋印塔     南北朝時代前期 1344年
市・史跡 無量光寺(むりょうこうじ)貞和年銘 宝篋印塔      南北朝時代前期 1345~50年
市・史跡 無量光寺(むりょうこうじ)康安元年銘 宝篋印塔     南北朝時代中期 1361年
市・史跡 無量光寺(むりょうこうじ)至徳四年銘 宝篋印塔     南北朝時代後期 1387年
市・史跡 無量光寺(むりょうこうじ)応永二年銘 宝篋印塔     室町時代初期 1395年
市・史跡 無量光寺(むりょうこうじ)応永十四年銘 宝篋印塔    室町時代前期 1407年
市・史跡 無量光寺(むりょうこうじ)応永二十一年銘 宝篋印塔  室町時代前期 1414年
市・史跡 無量光寺(むりょうこうじ)永享二年銘 宝篋印塔     室町時代前期 1430年
市・史跡 無量光寺(むりょうこうじ)文安二年銘 宝篋印塔     室町時代前期 1445年
市・史跡 無量光寺(むりょうこうじ)寛永七年銘 宝篋印塔     江戸時代前期 1630年

無量光寺(むりょうこうじ)宝篋印塔 一覧

 無量光寺(むりょうこうじ)康永三年銘 宝篋印塔                  石仏と石塔-目次!

無量光寺 歴代廟塔 中央

時宗三祖 智得の墓塔と思われる元応二年(1320)銘宝篋印塔は、Bの位置に安置されている。

新造の大型宝篋印塔が中央に、左右に十五基、前方にも多数の宝篋印塔が安置されている。

宝篋印塔紀年順  宗本寺 康永四年銘 二重宝篋印塔(南北朝時代前期)  宝篋印塔-紀年順-目次

*JR東相模線 「原当麻(はらたいま)駅」下車、西方向へ徒歩 約17分。

(撮影:平成24年11月7日)